ピュリツァー(ピュリッツァー)賞という賞をご存知でしょうか?
100年以上の歴史を誇る偉大な賞ですが、受賞対象はアメリカ国内のメディアで発表されたものとなっているので、なんとなくしか知らないという人もいるかもしれません。
この記事では、過去にピュリツァー賞を受賞した3人の日本人写真家についてご紹介します。
そもそもピュリツァー賞とは?
ピュリッツァー賞はアメリカの新聞王ジョゼフ・ピュリッツァーの遺言により、ジャーナリストの質の向上を目的として1917年に設立された賞です。
運営委員会はコロンビア大学に置かれ、受賞対象は報道・文学・音楽と幅広い分野にわたっています。
写真に関係する「報道写真部門」は1942年に設立されました。
報道写真部門の受賞対象は、アメリカ国内の新聞や速報メディアに掲載された記事・写真です。
アメリカでは全世界のニュース内容を扱っているので、時代を反映した記事が受賞作に選ばれることも多くフォトジャーナリズムの最先端にある賞といえるでしょう。
写真業界においても長い歴史を誇る、世界中に大きな影響力を持つ賞として知られています。
ピュリツァ-賞受賞写真全記録 第2版/日経ナショナルジオグラフィック社/ハル・ビュエル
ピュリツァー賞を受賞した3人の日本人写真家
そんなピュリツァー賞ですが、日本人では以下の3人が受賞しています。
・長尾 靖(ながお やすし)
・沢田 教一(さわだ きょういち)
・酒井 淑夫(さかい としお)
それぞれについて詳しく解説していきましょう。
長尾靖「舞台上での暗殺」
出典:Wikipedia
1930年5月20日 – 2009年5月2日
日本人として初めてピュリツァー賞を受賞したのが長尾靖です。
長尾は1960年10月12日、日比谷公会堂で日本社会党の浅沼稲次郎委員長が刺殺される瞬間を撮影しました。
当時の東京では右翼・左翼双方の学生グループがあちこちでデモを繰り広げていました。
事件当日、日比谷公会堂は3000人近くの政党関係者で溢れており、当時の社会党書記長・浅沼稲次郎が演説中でした。
毎日新聞社に所属していた長尾は12枚入りのフィルムカメラで全体写真、クローズアップ写真、政党関係者などを撮影していました。
11枚撮影して残り1枚になったところで、舞台の影から日本刀を持った学生服の若者が飛び込んできます。
この若者は狂信的な右翼学生・山口二矢(やまぐち おとや)で、彼は浅沼の心臓に刀を突き刺し引き抜きます。
この決定的な瞬間を、長尾はフラッシュによって鮮明に捉えていました。
当時、毎日新聞社の写真に対して独占的権利を保有していたアメリカの通信社UPI通信がこの写真を全世界に発信したことにより、この写真はピュリツァー賞を受賞します。
この1枚はピュリツァー賞の他に世界報道写真大賞も受賞しており、こちらも日本人初の受賞でした。
長尾はその後毎日新聞社を退社し、フリーランスとして記事翻訳や航空誌の編集に携わります。
2009年5月2日、彼は自宅のアパートを訪ねた知人により死亡しているのを発見されました。
遺品のなかにはピュリッツァー賞の受賞証書があったそうです。
沢田教一「安全への逃避」
出典:Wikipedia
1936年2月22日 – 1970年10月28日
UPI通信東京支局の写真編集者兼カメラマンだった沢田は、ベトナム戦争の取材を強く希望していました。
沢田は上司にベトナム行きを強く要求していましたが受け入れられず、休暇をとって自費で取材旅行へ出かけます。
紛争の中で彼が撮った写真は高く評価され、UPI通信社から正式赴任の要請を受けることとなります。
これにより沢田は継続的にベトナム戦争を撮影をすることになり、彼がヘリコプターに乗って撮影した前線のキャンプや偵察の様子は世界中に発信されました。
そんな取材を続けるある日、沢田は2人の母親が向こう岸から子どもたちを連れて水の中を歩いて渡ってくる姿をカメラに収めます。
それはアメリカ軍が南ベトナム解放民族戦線の村を爆撃したために逃げてきた人々でした。
この写真は、彼が1966年に受賞したピュリツァー賞の一連の作品のなかで最も重要な1枚となりました。
沢田はその後、UPI通信香港市局の写真部長を務めることとなります。
そこではデスクワークが主な仕事でしたが、その間にもベトナム戦争は拡大し取材範囲はカンボジアやラオスまで拡大していきます。
デスクワークよりも現地取材を希望する沢田は、1970年にカンボジアへと向かいます。
そこで支局長とともに取材中に現地の襲撃に会い、帰らぬ人となりました。
酒井淑夫「より良きころの夢」
出典:昭和ガイド
1940年3月31日 – 1999年11月21日
酒井淑夫は、同僚であった沢田教一がピュリツァー賞を受賞した後にベトナムへの転勤を希望しました。
そこから長きに渡って戦争を取材するなかで、彼は大雨が静かな写真を撮る機会を与えてくれることを経験として学んでいました。
それはいつもの戦闘写真とは対照的なものです。
ある黒人兵士がずぶ濡れの砂袋の上に横たわっています。
戦友の白人兵士は大雨のなかでもライフルをいつでも使えるよう警戒しています。
こんな豪雨では攻撃もありそうにないですが、そんなときこそ警戒を怠ってはいけないという緊迫感のある様子を彼は撮影しました。
激烈な戦争の静かな側面を細やかな感性で捉えたこの写真は、ピュリツァー賞特集写真部門の第1回受賞作品となります。
酒井は戦争が集結するまで取材を続け、その後はフリーランス・フランスのAFP通信社・ニュースカメラマンなど幅広い分野で活躍しました。
まとめ
いかがだったでしょうか。
ピュリツァー賞を受賞した3人の日本人写真家についてご紹介しました。
長い歴史のなかで日本人受賞者はこの3人のみとなっています。
受賞作の多くが戦争や内乱であることを考えると、受賞者が少ないことは必ずしも悪いことではないのかもしれませんね。
近年ではコロナウイルス下のスペインでの高齢者の生活や、紛争地域であるカシミール地方の写真などが特集写真部門を受賞しています。
世界の時事問題を知るいい機会にもなるので、気になった方はぜひとも他の作品も調べてみてください。
ピュリツァ-賞受賞写真全記録 第2版/日経ナショナルジオグラフィック社/ハル・ビュエル