ユージン・スミス
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日本の高度経済成長期に発生した水俣病。

工業排水による環境汚染が原因の病気として広く知られており、多くの犠牲者を出した恐ろしい公害病です。

そんな水俣病の患者たちやその家族について取材・撮影を行い、世界に発信した外国人写真家がいました。

彼の名前はユージン・スミス。

2021年9月23日にはジョニー・デップ主演で彼の半生を描いた映画「MINAMATA」も公開されます。

この記事ではそんなユージン・スミスの活動や作品についてご紹介します。

 

プロフィール

ユージン・スミス

出典:シネマカフェ

ウィリアム・ユージン・スミス(William Eugene Smith)

1918年12月30日 – 1978年10月15日

ユージン・スミスはアメリカ出身の写真家で、国際写真家集団マグナム・フォトのメンバーでもありました。

マグナム・フォトについては過去に紹介記事を公開しているので、興味のある方はこちらもぜひ読んでみてください。

 

彼はフォトジャーナリストとして活動し、主に戦争写真の撮影やフォト・エッセイの執筆を行っていました。

ユージン・スミス

出典:「写真はときには物を言う」

彼の作品の特徴は「真っ暗闇のような黒とまっさらな白」のメリハリであると言われています。

ユージン・スミス

出典:「写真はときには物を言う」

特に暗室での現像作業にはこだわりが強く、納得のいくまで何日もこもりきりで作品と向き合っていたそうです。

 

 

ユージン・スミス

出典:「写真はときには物を言う」

強いこだわりを持って、真摯に作品と向き合っていたことがよくわかるエピソードですね。

 

 

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水俣病を取材するまで

ユージン・スミスは18歳でアメリカの週刊誌・Newsweek誌の仕事を始め、第二次世界大戦中に戦争写真家としてサイパン・沖縄・硫黄島などに派遣されました。

 

しかし戦争を撮影中の1945年、沖縄で全身を負傷しその後の約2年間は療養生活を送ります。

このときの後遺症には生涯悩まされることとなりました。

 

戦後は日常にひそむ人間性の追求や人間の生活の表情などに興味を向け、「フォト・エッセイ」という形でそれに取り組んでいきます。

 

ユージン・スミス

出典:「写真はときには物を言う」

その後、富士フィルムのCMにてインタビューを受けることとなり、通訳を務めるアイリーン・スプレイグ(のちの妻となるアイリーン・美緒子・スミス)と出会います。

日本人の母とアメリカ人の父をもつアイリーンは、カリフォルニアにあるスタンフォード大学の学生で当時20歳、ユージンは当時51歳でした。

親子ほど歳の離れた2人でしたが、ユージンからの熱烈なアプローチで活動を共にすることとなります。

 

ユージン・スミス

出典:Wikipedia

アイリーンとの出会いから2ヶ月経った頃、のちに出版社をつくってユージンのポートフォリオを手掛けることになる元村和彦がニューヨークのユージンのもとを訪れます。

彼が水俣病の取材を提案したことがきっかけとなり、ユージンとアイリーンは来日することを決めます。

当時のユージンは沖縄戦での後遺症に苦しんでおり、それを和らげるため薬やアルコールに依存していました。

肉体的にも精神的にもボロボロの状態だったユージンにとって、この水俣病の取材は彼の最後の大仕事となります。

 

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水俣病の取材と後遺症

来日後、ユージンとアイリーンは日本で婚姻届を提出し、夫婦として熊本県水俣市に家を借ります。

そしてその後の3年間、水俣で生きる患者たちやその家族などの取材・撮影を行いました。

ユージン・スミス

出典:「写真はときには物を言う」

水俣病の患者やその家族と丁寧に関係を築きながら精力的に取材を行っていく過程で、ユージンとアイリーンは水俣病を象徴する写真「入浴する智子と母」を撮影します。

この写真はLIFE誌に掲載され、世界中に大きな衝撃を与えました。

 

新聞や雑誌、国内外の写真集、ポスター、学校の教科書などにも使われ、まさに水俣病の悲劇を象徴するものとなりましたが、被写体となった方々の希望により現在では公開を封印されています。

このような名作を残したユージンですが、戦争の後遺症により体調は優れませんでした。

 

1972年には千葉県にてチッソ五井工場の取材中に、水俣病患者やその支援者らとチッソ労働組合員らの衝突に巻き込まれます。

ユージンはカメラを破壊された上に、コンクリートに激しく打ち付けられ片目を失明するという重傷を負います。

 

ユージン・スミス

出典:「写真はときには物を言う」

この痛ましい事件は、もともとあった戦争の後遺症による体調悪化に拍車をかけ彼をさらに苦しめることとなります。

それでもユージンは撮影を続けました。

 

写真集と晩年

戦争の後遺症と千葉での暴行によりユージンの身体はボロボロでしたが、彼は取材を続け1973年には池袋にて写真展を開催しています。

 

そして1974年、夫妻は3年間暮らした水俣市を去りニューヨークへ帰国しました。

翌1975年にはアイリーンとの共著で、写真集『MINAMATA』の英語版を出版し世界中で大きな反響を呼びます。

ユージン・スミス

出典:Amazon

しかし2人の生活はうまくいっておらず、写真集の出版後に離婚することとなります。

離婚後のユージンはアリゾナ大学で教鞭をとっていましたが戦争での怪我や暴行の後遺症により、シャッターを切ることもピントを合わせることもできなくなってしまいます。

そして1978年、自宅そばの食料雑貨店へ買い物に来ていた際、発作を起こし59歳で亡くなりました。

日本語版の写真集「水俣」が出版されたのは、ユージンの死後である1980年でした。

 

 

映画「MINAMATA」

ユージン・スミス

出典:「MINAMATA」公式サイト

彼の水俣病に対する取り組みを題材にした映画「MINAMATA」が9/23に公開されます。

1971年、ニューヨーク。アメリカを代表する写真家の一人と称えられたユージン・スミスは、今では酒に溺れ荒んだ生活を送っていた。そんな時、アイリーンと名乗る女性から、熊本県水俣市にあるチッソ工場が海に流す有害物質によって苦しむ人々を撮影してほしいと頼まれる。水銀に冒され歩くことも話すことも出来ない子供たち、激化する抗議運動、それを力で押さえつける工場側。そんな光景に驚きながらも冷静にシャッターを切り続けるユージンだったが、ある事がきっかけで自身も危険な反撃にあう。追い詰められたユージンは、水俣病と共に生きる人々にある提案をし、彼自身の人生と世界を変える写真を撮る──。

出典:「MINAMATA」公式サイト

この記事を読んで興味をもった方は、ぜひ劇場へ足を運んでみてはいかがでしょうか?

 

まとめ

いかがだったでしょうか?

水俣病を取材した写真家ユージン・スミスについてご紹介しました。

彼は常に最前線で被写体となる人と同じ目線に立って接し、「声のない人たちの声」を届けていたと言われています。

その人生は苦難の連続でしたが、残された作品は今なお多くの人に影響を与え続けています。

 

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